時間が止まった木浦儒達洞が歴史になった



木浦(モクポ)市内を屏風のように囲んでいる儒達山(ユダルサン)の麓に位置している儒達洞。町の入り口には、外見だけを見ては特別なものは一つもない粗末なスーパーマーケットが一つある。しかし内部に入って2階に上がると、全く異なる光景が繰り広げられる。和風の畳部屋がそのまま残っており、まるで日本家庭を訪れたような気がする。

ここは1935年、植民地の朝鮮で様々な農産物や木材などを収奪していた福田農業株式会社の社宅で、80年を超える歴史を持っている。ここで店を経営しているカン・ロク氏(59)は、「十数年前にこの家を購入したとき、畳構造を見てびっくりした」とし、「やや古い家なので不便な点もあるが、古い歴史と一緒に暮らすということが、特別な感じで迫ってくる」と話した。

儒達山の方向に歩けば、開校から120年になった儒達小学校が出てくる。学校の片隅には1929年に建てられた3階建ての旧木浦公立尋常(シムサン)小学校が原型のまま保存されている。このように、近代の趣がそのまま残っている儒達洞一帯を歩くと、まるで1920年代の町を歩くような感じがする。

最近、文化財庁は、全羅南道(チョンラナムド)木浦市儒達洞・万戸洞(マンホドン)一帯の11万4038平方メートルを、「木浦近代歴史文化空間」という名を付けて、登録文化財に指定すると予告した。近代文化遺産を対象とする登録文化財は、2001年に導入後、建築物や書籍のように、個々の文化財単位で登録が行われた。そのうち、「木浦近代~」を含めて、全羅北道群山市(チョンラブクド・クンサンシ)と慶尚北道栄州市(キョンサンブクド・ヨンジュシ)地域の一帯が空間単位の登録文化財となったのだ。文化財庁は、「線と面単位の登録制を導入したことで、文化財を脈絡に沿って立体的に保存して活用できるようになった」と明らかにした。

先月26日に訪れた木浦儒達洞・万戸洞では、近現代史の跡をあちこちで発見することができた。1897年の開港以来、木浦は木浦港と木浦駅などの交通の要地として位置づけられ、近代資本主義が栄えた都市だった。おかげで植民地の朝鮮で最も盛んな地域にのみ設置された日本領事館や東洋拓殖株式会社(東拓)の木浦支店、木浦和信(ファシン)百貨店などが陣取り、現在も残っている。パク・ユンチョル木浦市学芸研究官は「日本植民地時代に湖南(ホナム)地域で収奪した物資が木浦港から船に乗せられて日本に行ったので、相対的に豊かな地域だった」とし、「当時、官公庁や商店街が混在した独特の景観を秘めところだ」と説明した。

韓国民族の底力を示す文化財もあちこちにある。日本の資本で立てた和信百貨店に対抗して、朝鮮の婦女子たちが直接設立した「東亜(トンア)婦人商会」の木浦支店が代表的だ。1937年11月17日付の東亜日報の記事で、「東亜婦人商会が木浦の大百貨店」と紹介するほど、民族資本の底力を示したところだった。現在は「アコースティック・ギター」店として使われる店は、日本植民地時代に建てられた建物で、5・18民主化運動の当時、木浦地域の指導者だったアン・チョル長老(1945~2003)が運営した東亜薬局の建物として使われたところでもある。

キム・ヨンヒ文化財庁近代文化財課事務官は、「米シアトルなどで成功を収めた『メインストリート』プロジェクトや日本の近代遺産を活用した『サッポロファクトリー』のように、地域単位の文化財を保存して活用することが世界的な傾向だ」とし、「各地域の独特の文化遺産と都市再生事業を連携して、地域経済活性化の新しいモデルとして構築する計画だ」と語った。

【東亜日報日本語版】http://japanese.donga.com/Home/3/all/27/1375018/1


収奪に次ぐ収奪で「民族資本」なんて出来ないでしょう?
おまけに世界で最も苛酷な統治だったらしいし、常識的に
考えても百貨店を建てたり経営するなんてありえません。
それでも「民族の底力」を示したと言うなら、それはもう
植民地ではなく機会均等な共存社会でしょう。

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