韓国人より韓国を愛したホーマー・ホルバート博士70回忌
「韓国人より韓国を愛した外国人」と呼ばれた米国人独立運動家ホーマー・ホルバート博士(1863-1949、写真)の70回忌の追悼式が9日に開かれた。社団法人「ホルバート博士記念事業会」の主管で、ソウル市麻浦区楊花津の100周年宣教記念館で開かれたこの日の追悼式には、呉振栄(オ・ジンヨン)ソウル報勲庁長をはじめ各界の人物および独立有功者などおよそ400人が出席した。
米国バーモント州で生まれたホルバート博士は、1886年に23歳で大韓帝国の王立英語学校「育英公院」の教師として韓国へやって来た。彼は外国語を教えただけでなく、外交諮問を務めて高宗の補佐も行った。さらにホルバート博士は1905年の乙巳勒約の後、高宗の親書を持って米国に特使として派遣され、乙巳勒約の不当性を説明し、翌年『韓国評論』を通して日本の野心と野蛮な弾圧を暴露した。1907年には、オランダのハーグで開かれた万国平和会議に特使を送るよう高宗に建言し、ハーグで特使一行の活動を支援した。
1908年に米国へ戻った彼は、1919年の3・1運動を支持する文章も記した。1949年7月29日に大韓民国政府の招待で8・15光復節行事に出席したホルバート博士は、その1週間後に亡くなった。「韓国の地に葬られたい」という生前の遺言に基づき、楊花津の外国人墓地に埋葬された。韓国政府は彼の功績をたたえ、1950年に外国人として初めて建国勲章(独立章)を追叙した。
【朝鮮日報日本語版】
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2019/08/10/2019081080004.html
米国バーモント州で生まれたホルバート博士は、1886年に23歳で大韓帝国の王立英語学校「育英公院」の教師として韓国へやって来た。彼は外国語を教えただけでなく、外交諮問を務めて高宗の補佐も行った。さらにホルバート博士は1905年の乙巳勒約の後、高宗の親書を持って米国に特使として派遣され、乙巳勒約の不当性を説明し、翌年『韓国評論』を通して日本の野心と野蛮な弾圧を暴露した。1907年には、オランダのハーグで開かれた万国平和会議に特使を送るよう高宗に建言し、ハーグで特使一行の活動を支援した。
1908年に米国へ戻った彼は、1919年の3・1運動を支持する文章も記した。1949年7月29日に大韓民国政府の招待で8・15光復節行事に出席したホルバート博士は、その1週間後に亡くなった。「韓国の地に葬られたい」という生前の遺言に基づき、楊花津の外国人墓地に埋葬された。韓国政府は彼の功績をたたえ、1950年に外国人として初めて建国勲章(独立章)を追叙した。
【朝鮮日報日本語版】
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2019/08/10/2019081080004.html
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当時の貴族階級(両班)と付き合いが深かった人物なんですかね~?
ならば、当時の庶民の暮らしぶりをきっちりと見ていたのかな~?
そりゃ貴族階級と付き合っていたなら、朝鮮は天国だったでしょう。
三郎太
がしました