「この色じゃなかった」 光化門の扁額、4回目の変更へ



 景福宮の正門である光化門の扁額(へんがく)がまた取り換えられる。光化門の扁額は日本による植民地支配時代以降だけで4枚目となり、波瀾(はらん)万丈の歴史を歩んでいる。文化財庁は30日、「光化門の扁額のもともとの色は黒地に金箔(きんぱく)文字だったことを突き止めた。来年上半期までに現在の白地に黒文字の扁額を外し、新しい扁額を設置する」と発表した。そうなると、2010年に復元された現在の扁額はひび割れ問題を引き起こしただけでなく、考証そのものが間違っていたことになり、「復元がいい加減だった」との批判は避けられないものと見られる。

「何の根拠もありませんが、金箔文字ではなかったと想像します。」


■「門化光」→「光化門」→「門化光」

 光化門は1395年(朝鮮時代・太祖4年)に建てられたが、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)時に焼失した。現在、白黒写真で残っている光化門の扁額が初めて製作されたのは、朝鮮時代・高宗初期の景福宮改築(1865-68年)のことだ。再建を任された訓練大将の任泰瑛(任泰瑛)は右から左に「光化門」という文字を漢字で書いた。この光化門が景福宮の正門として建っていたのは約60年に過ぎなかった。1927年、日本は朝鮮総督府庁舎を建てるため景福宮にある複数の建築物を取り壊し、光化門を景福宮の東門である建春門の北側に移した。本来あるべき位置から離れてしまった光化門は6・25戦争(朝鮮戦争)時に爆撃されて焼失した。

 光化門が再び姿を見せたのは1968年のことだ。当時の朴正煕(パク・チョンヒ)大統領の指示で、経済成長期を象徴するよう鉄筋コンクリートで再建された。新しい光化門には朴元大統領直筆の「光化門」というハングルの扁額が掲げられた。しかし、盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権発足で「朴正煕が書いた字を外そう」という声が上がり、2006年に始まった光化門復元工事でコンクリートの建物が取り壊された。

■8年たって「この色じゃなかった」

 2010年に再建された光化門には任泰瑛の「光化門」という文字を復元した扁額が掲げられた。ところが、縦1.5メートル×横3.9メートルに及ぶこの大型扁額は復元からたった2カ月で上下にひびが入り、手抜きではないかと問題になった。現在はひびが補修されている。だが、さらに悪いことに、「色がおかしい」という声もあちこちから上がった。「勤政殿・勤政門・興礼門など、ほかの景福宮の建築物の扁額は黒地に金色の文字が入っている」というものだ。文化財庁は当時、「東京大学(1902年)や国立博物館(1916年)所蔵のガラス乾板写真を見ると、白地に黒の文字で合っている」と反論した。白黒写真では、文字の方が周りの地の色よりもはるかに暗く見えたためだ。だが、2016年に文字の方が周りの時の色よりも明るく見える米スミソニアン博物館所蔵の光化門の写真(1893年ころ)が見つかり、再び論争となった。「写真を撮影した角度によって、黒よりも明るく見えたり、暗く見えたりする文字があるなら、それはひょっとしたら金色の文字ではないだろうか」というわけだ。

 文化財庁は昨年、遅ればせながらこの扁額の「科学的分析」を開始した。中央大学産学協力団と共に白黒写真と同じ光化門の扁額の色を探すため、実験を行った。地の色4種類(白・黒・漆・コバルト色)と、文字の色5種類(白・黒・金箔・金漆・コバルト色)の仮説の扁額を作成、違う角度・天気のもとで撮影した。その結果、1年後に「黒地に金箔文字」という結論に至った。結局、10年近くも史実とは違う扁額を掲げていたというわけだ。韓国文化遺産研究院のパク・サングク院長は「初めて論争が起こった時も『科学』はあったはずなのに、文化財庁の対処が遅すぎた。文化財復元問題では、より精密に研究を進める必要がある」と指摘した。

兪碩在(ユ・ソクチェ)記者

【朝鮮日報日本語版】
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2018/01/31/2018013101320.html


もうアノ国に存在する全ての物に信憑性が無い。
物だけではなく、とにかく全て。
外から見ると、今さらそれを変えても・・・

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