「日本がつくった」と、なぜ言わない?! (10)鉄道と水道の密接な関係



--- 前半省略 ---

 朝鮮の上水道整備も鉄道建設と合わせて日本統治時代に急速に進んでいる。それまでの、水をめぐる環境は劣悪であった。

 昭和12年の業界誌に開城(現北朝鮮)の上水道事業について書いた一文が残っている。

 《朝鮮の開城府は高麗朝500年間の都…昭和5年の府制実施時には鮮内有数の都市にして人口約5万(略)市街一体井(戸)水に乏しく且(か)つ飲料に適するもの稀(まれ)なるを以(もっ)て一朝(いっちょう)悪疫の発生あらんか、その惨害蓋(けだ)し戦慄すべきもの…上水道の建設は亦(また)実(じつ)に喫緊の急務なりとす》

 日本の水道技術は当時からトップレベルにあった。世界でも少ない「飲める水」を蛇口から供給できるのが今も昔も日本の水道技術の自慢である。そのために良質の水源を見つけて取水し、導水し、浄水施設で濾過(ろか)しなければならない。こうした技術と資金を投入し、12年の段階で、朝鮮の約60都市に、上水道を建設。住民の衛生環境も飛躍的に改善した。

  戦後も日本の技術で

 日本が関与した水道の話は戦後も続く。

 日韓の国交が正常化した昭和40(1965)年、当時の韓国国家予算を上回る5億ドル(有償・無償)の巨費が日本から供与されたことはすでに書いた。この資金を利用して、老朽化や供給量不足に陥っていた韓国約10都市の上水道を再整備する計画が持ち上がる。

 実際には、新日鉄(現新日鉄住金)が全面協力した韓国東海岸・浦項(ポハン)製鉄所の建設にも、その資金が回されたため、水道整備計画は縮小されたが、これを担当したのもまた日本の技術者だった。当時の韓国にはこうした技術がなく、日本に頼るほかなかったからである。

 東大名誉教授(衛生工学)の藤田賢二(83)は当時、水道メーカーの技術者として、1960年代後半から70年代にかけて韓国での事業を担当した。大田(韓国中部)、光州(同南部)2都市の取水・導水・浄水施設の計画、設計、建設に携わり、冷却水などに大量の水を使う浦項製鉄所の案件も担当した。渡韓は数十回に及ぶ。「当時はまだ日本語をできる人がたくさんいて、鳶(とび)職人のかけ声などは、日本とまったく同じだったので驚きました」と懐かしむ。

 ただ残念なのは、こうした水道施設が日本の資金・技術でできた事実を韓国では“封印”されてしまうことだった。

 光州の通水式で、あいさつに立った市長は「われわれだけの力で水道建設が行われたことはまことに喜ばしい」と話し、日本のにの字も口にしなかった。また、藤田が数年前に大田で開かれた水道関係の国際会議に出席したときも、市の浄水施設ができた経緯を参加者の誰も知らなかった様子だったという。

 藤田は言う。「(光州の市長のあいさつを聞いたときは)苦笑いでやり過ごしたが、じゃあ、なぜ通水式の場に日本の技術者が出席してるのかってね。僕がメーカーを退職した後も、後輩たちが韓国の水道事業に貢献しています。だけど記念碑もないし、(技術者の)名前も残らない。まぁわれわれ技術者は、ちゃんとものが動きさえすればいいんですけれど…」=敬称略、日曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

【産経ニュース】http://www.sankei.com/column/news/180318/clm1803180008-n1.html







日本の政治家は国民が「悔しい、腹が立つ」思いをしても
我関せずな態度で微動だにしない。アノ国のために日本人が
どれだけ被害に遭い、悔しい・腹の立つ思いをしているか。
上の件でも分かるように、彼らは絶対日本に感謝したり、
恩を感じたりする事はありません。今は制裁に舵をきる時。

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